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昭和19年(1944年)
外で元気に遊ぶ活発な子供。相撲、水泳、野球に明け暮れる日々。
特に相撲は無敵で、持ちきれない桶(当時、相撲に勝ったら相手から桶をもらうことが流行していたらしい)を持って帰った。
机に上って吉田茂の演説のマネをするなど、このころから'政治少年'だった。 -
昭和35年(1960年)
自分より年上の人とばかり遊び、時には政治談義に花を咲かせる毎日。
母親の内職の手伝いをする親孝行の一面もあったとか。 -
昭和38年(1963年)
親友と英会話の塾に通い、アメリカ留学への夢を馳せる一方、河野一郎、ケネディー大統領にあこがれ政治への思いを膨らませる。
家にはほとんど居ない、活動的な少年だった。 -
昭和43年(1968年)
大学では政治学を専攻する。憧れの政治家二人が相次いで亡くなり、河野一郎の葬式に一般で駆けつけた。
京都に帰ってきては選挙のボランティアをしていた。 -
昭和44年(1969年)
国際会議を通じて国際感覚を磨く一方、
ボランティア時代に培った政治家との親交を深める。
「世界を知りたい」との思いを押えきれず、退職しアメリカへ行く決意をする。 -
昭和47年(1972年)
国際会議で知り合ったアメリカ人の教授を頼ってアメリカ・サクラメントへ行く。
ジュニアカレッジで政治学を聴講しながらアメリカ社会を体験する。 -
昭和48年(1973年)
衆議院議長を務めた「政界三賢人」の1人、前尾繁三郎氏の秘書として政治とは何か、
を現場を通じて学ぶ毎日。
先輩秘書にもしごかれながら人間的にも大きく成長した。
現在でも、その時代からの支援者が大勢おられる。大変な財産を頂いた。 -
昭和58年(1983年)
元自民党幹事長の野中ひろむ氏の事務所でお世話になる。
野中先生の一回目の衆院選を一緒に戦い抜き、政治姿勢を側で勉強させて頂く。
以来政治の師として、本当にお世話になっている。
地方政治から叩き上げたスタイルを心から尊敬している。 -
昭和62年(1987年)
42歳にして右京区から市会議員に当選。約160票差の薄氷を踏む勝利であった。
以後、皆様の温かいご支援に支えられて5回の当選をさせて頂く。
その間、地方政治・行政に精通し、有数の政策通と呼ばれるようになる。 -
平成11年(1999年)
市会議長の重責を担う。また、全国701市の議長が集まる全国市議会議長会の会長にも選出される。
地方議員でありながら、東京へ頻繁に出かけ法整備にも参画。
地方分権にも精通し、その後の議員活動にも拍車がかかる。 -
平成15年(2003年)
自民党京都府連の幹事長に就任。衆議選、市長選を経験する。
自民党に逆風が吹く厳しい選挙を通じて、新しい挑戦への意欲が芽生える。
幹事長を辞任し、参議院候補予定者となり、京都府下全域を毎日駆け回る日々が続く。 -
平成16年(2004年)
一票一票の重みを胸に刻み、身の引き締まる思いで初登院。
総務委員会に所属する。市会議員時代に培った経験をもとに1年生議員とは思えない鋭い視線で質問を繰り出し、総務省と対峙していく。
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平成19年(2007年)
第二次安倍内閣、福田内閣で地方自治担当の総務大臣政務官となる。長い地方自治分野での取り組みや全国市議会議長会会長の経験を生かし、政府の一員として地方発展、元気な地域づくりに力を尽す。視察で訪れた夕張市では財政再建に必死に取り組む住民の姿勢に心を打たれる。
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平成20年(2008年)
総務委員会の理事として、地方交付税法などの成立に奔走する。毎週のように質問に立つことも。毎日遅くまで資料集めやレクチャーを受け積極的に勉強を続ける。
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平成21年(2009年)
自民党総裁になった谷垣禎一会長の留守を預かることとなり、京都中をくまなく歩いている。改めて京都全体を見つめなおす機会となり、皆様の声を聞くことで過度の期待をさせる民主党政権の危うさを実感する。参議院で民主党の単独過半数は絶対に阻止しなければならないと強く心に誓う。
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平成22年7月(2010年)
民主党政権下での、2回目の参議院議員選挙。野党でありながら、たくさんの皆様の応援をいただき、2回目の当選。民主党の無責任な政権運営を厳しく追及していく。
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平成26年9月(2014年)
京都市会議員、全国市議会議長会の経験を活かし、東京一極集中を是正し、地方創生を推進していくことを決意。同年12月の第3次安倍改造内閣でも再選。
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幼少時代の二ノ湯(右)
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中学校時代の二ノ湯
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慶応大学時代の二ノ湯
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前尾繁三郎氏
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野中ひろむ氏と
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京都市会議員初当選
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69代京都市会議長に就任
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安倍晋三氏、小泉純一郎氏と
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初登院
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総務委員会質問
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総務大臣政務官に就任
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夕張視察
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予算委員会で質問
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ふるさと対話にて
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谷垣総裁から公認証書をうける